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Q1.ペリーってどんなひと?
 Q2.小栗上野介ってどんなひと?
 Q3.開国当時のエピソードは?
 Q4.黒船が来る前の「よこすか」は、どんなところ?
 Q5.大八車と「よこすか」の関係って、どんなこと?

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ペリーってどんなひと?
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小栗上野介ってどんなひと?
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開国当時のエピソードは?
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1865年(元治2年)の製鉄所(造船所)建設からはじまった横須賀の発展は、その後明治初期中期に、さまざまな面で新しいものを生み出してきました。
■ビール瓶が大人気
異国船の来航は、異文化との遭遇という楽しみがありましたが、1853年初来日のペリーは、大統領親書の受け渡しが終了するまで日本人の艦内への立ち入りを厳しく規制していました。
しかし受渡しが終了すると気の緩みからか、艦上でビールを飲み空き瓶を海に投げ捨てる船員がでてきました。これを見ていた漁師たちは先を争って海に飛び込み、ビンを拾い上げたそうです。当時の日本では、ガラス製品は「ギヤマン」と呼ばれ、とても貴重品だったのです。
事態を重く見た奉行所は、ビール瓶の回収を申し渡しましたが、大切な宝物を簡単に手放すことはありませんでした。一方、ペリー側では空き瓶の人気を知り、二度目の来航前に空き瓶を仕入れたといいます。
■歩き方が変わった
浦賀沖に来航したペリーが久里浜に上陸したのは1853年7月14日(嘉永6年6月9日)の朝でした。警備の侍たちが、ペリー一行に随行する300人近くの海兵隊を見て驚かされたのは、軽快な音楽隊の演奏にあわせて行進する姿でした。全員の足並みが揃い、しかも膝を上げ、手を振り、右手が前に出ると同時に左足が出、左手を前に出すと同時に右足が出るその歩き方に驚嘆したのです。
これまでの日本に無かったこの歩き方は早速取り入れられ、この行進は近代的な軍隊の基本となりました。
のちに明治以降になると、学校教育にも取り入れられ、手足が逆に出る今の歩き方は日本人の常識となったのです。
■横須賀製鉄所(造船所)の建設
1865年(元治2年)、小栗上野介忠順、フランス人技師ヴェルニーらによって着工した横須賀製鉄所は、日本の近代産業発祥の地とも言われています。
のちに造船所と名称を変えたこの場所は、明治20年代の半ばまで連日一般に開放し、見学することができました。当時としては巨大なクレーンなどの製鉄加工技術をはじめ、レンガの製造、電灯、電話、上水道、学校、木工そしてドライドックと、さながら科学博覧会場そのものでした。また、さまざまな分野で近代日本をリードした人物を多く輩出しました。
■灯台の設置
1866年(慶応2年)に江戸幕府よりヴェルニーに依頼された灯台建設事業は、明治政府が発足してからも引き継がれ、1868年(明治元年)日本最初の洋式灯台として竣工、翌年2月11日(旧暦正月)に初点灯しました。この灯台の起工日の11月1日(1868年11月1日)がのちに「灯台記念日」となりました。以降観音埼灯台は、1923年(大正12年)竣工の2代目(関東大震災で崩落)、大正14年竣工の3代目で今に至っています。
初代灯台の建築に使用されたレンガは、フランス人技師により横須賀製鉄所で造られたもので、 その1つ1つに「ヨコスカ製鉄(鋳)所」の印が押されています。
■横須賀鎮守府の設置
1884年(明治17年)、横浜にあった海軍の東海鎮守府が横須賀に移り横須賀鎮守府と改称され、横須賀が発展してゆく大きな契機となります。
初代長官として中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将が着任しました。
また、「鎮守府条例」「海軍造船所条例」により、横須賀造船所は鎮守府に属することが定められました。
明治23年に建設された鎮守府庁舎は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊、その後大正15年に再建された2代目鎮守府庁舎は現在、米海軍横須賀基地内の在日米海軍司令部として使われています。
■横須賀線の開通
1880年(明治13年)に陸軍が観音崎砲台の建設を開始し、明治17年には海軍が横須賀に鎮守府を置くなど、横須賀は軍事上の重要性を増します。このような背景から、1886年(明治19年)、陸軍大臣大山巌と海軍大臣西郷従道が内閣総理大臣伊藤博文に対して、横須賀への鉄道敷設を求め、1889年(明治22年)に大船−横須賀間で開通しました。
横須賀線は短い区間に8ヶ所もトンネルがある難工事であったにもかかわらず、驚異的早さで工事が行われたのです。
また横須賀駅は開業当時の面影を残し、階段の無い駅としても有名です。
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黒船が来る前の「よこすか」は、どんなところ?
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大八車と「よこすか」の関係って、どんなこと?
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